兼六園の地蔵(兼六園)

 このお地蔵さんは兼六園の霞ヶ池のそばの「乙葉の松」のとなりにあります。茶店の裏といった方がわかりやすいかもしれません。残念ながら扉に鍵がかかっていて写真に撮ることは出来ませんでした。格子から覗くといらっしゃいました。

 1824(文政7)年12代藩主が隠居所「竹沢御殿」で没したときの枕石のあとにこの地蔵堂が建てられました。堂内には中央に一体、左壁に一体、計二体のお地蔵さんが安置されています。

 1822(文政5)年、12代藩主斉広(なりなが)は、藩財政が火の車であるにもかかわらず、霞が池を中心とした高台に約4,000坪に及ぶ壮大な隠居所を建てたそうです。しかし、13代斉泰(なりやす)は建てられて間もないこの御殿を取り壊し、霞ヶ池を大きく掘り下げ今の兼六園に近い姿にしました。こうした藩末期における藩主達の無駄な浪費が名勝兼六園を生みだしたようです。

 このお地蔵さんは安産、出世、眼病を治す地蔵尊として信仰されています。縁日は8月24日で天徳院の僧侶を招いて地蔵祭が行われています。

(2,000年10月15日早朝撮影)

 

新天地地蔵尊(片町)

新天地地蔵尊縁起

 そもそも、当所に安置し奉る地蔵尊は今より1,180年前平安初期(大同2年)に建立されしものにして、その作者謂われは不詳なれども、この尊像はまことに霊験あらたかにして永く人々の尊崇を集め今日に及べり。

 一時、縁ありて加賀6代藩主前田吉徳公の家臣大槻伝蔵の屋敷に安置せられ、日夜祈願せしものなりと言う。 伝蔵は加賀藩によくその功ありて足軽より3,600石を高禄を拝領する身となりしも、重臣達の怨みをかいて越中五箇山に流刑せられ自ら命を絶ちたるものと伝えられる。

 しかれども、地蔵尊は当地の人々によりて伝蔵の菩提を弔うとともに、ひそかに開運出世を祈願せしなり、まことに地蔵尊の慈悲はよく人々の苦難を救い、その縁に従って利益を授け給うこと疑いなし。
ここにつつしんで拝礼をとげらるるべきものなり。

有識者しるす

大槻伝蔵は「加賀騒動」の中心人物です。さてその加賀騒動はおおよそ次の通りです。

伝蔵は百姓の倅でした。その父が鉄砲足軽として藩主の鹿狩りに参加し、功があったためにその子伝蔵がお城に奉公することになりました。利発な少年でしたが出世したいがために、酒宴に際しひそかに食べ物の中に毒を入れました。そしてそれをはじめて発見したかのように騒ぎ立て、その功によって五百石を賜り、御近習役に取り立てられました。

 その後もトントン拍子に出世し、藩主一族の前田修理の娘と結婚し三千五百石の加増をうけます。この後、さらに五千石を加増され年寄上座を占めるようになりました。

 そして、あろうことか六代藩主吉徳の側室真如院と密通しました。真如院は伝蔵と謀って吉徳との間に出来た子を藩主にするために、他の子の暗殺をはかり、吉徳を暗殺し、七代宗辰(むねとき)を毒殺しました。ついで中揩フ浅尾に命じて八代重Xと宗辰の母浄珠院の暗殺も謀って失敗しました。

 この陰謀は発覚し伝蔵は越中五箇山に流刑、のち自殺、浅尾は蛇責めの刑にて死亡、真如院は病気で亡くなりました。

「加賀・能登 史蹟のの散歩」(田中喜男著北国出版社)参考

と、ここまでは「風説加賀騒動」で昔の日本映画の題材にもなっています。

 しかし、実際は藩主吉徳が伝蔵の手腕を高く評価していたために重臣までに出世したそうです。そして藩の宿老達との間に対立がありました。当時、藩の財政は最悪の状態であり伝蔵の手腕すらも手に負えない状態であったようです。そんなことからも保守派との対立がますます強くなっていったようです。

 それが原因で世継ぎ騒動に伝蔵はまきこまれ、藩主吉徳の死で失脚せざるを得ないことになりました。また、側室真如院は吉徳に最大の寵愛を受けていたために、他の側室に嫉まれ伝蔵の失脚にも利用されたようです。

いくら伝蔵が出世したといっても最後は越中五箇山に流され牢獄で自害する運命になったことを考えると、開運出世の祈願をして出世してもあとが怖いような気がします。ちなみに現在富山県五箇山には伝蔵の流人小屋が再現されてあります。

今ここは飲食店が密集しており、火伏せの地蔵尊として信仰を集めています。

(2,000年10月14日早朝撮影)
(2,000年10月21日早朝撮影)

 

加賀延命地蔵尊(片町・養智院)
越中立山地獄谷地蔵尊(片町・養智院)
鬼川延命地蔵尊(片町・養智院)

由来

 当院は高野山真言宗にして今を去る一千有余年の時、淳和天皇の勅命により建立されたるものなり、正徳年間前田家五代松雲公この一帯の寺院に悉く転地を命ぜし時、ある夜の夢に本尊地蔵尊現れ告げて曰く「当院は鬼川の守護のために残しおかるべし」とこの夢三日に亘れり、故に外堀を兼ねる鬼川と城下の鬼門鎮護のため当院は転地せざりき、以来古寺町、裏古寺町の名この地に残れり

本尊地蔵大菩薩

 本尊地蔵大菩薩は弘法大師真作と伝う、日本三体の一にして御丈二尺五寸相好円満温和なること言説の及ぶとこにあらず世に加賀延命地蔵尊と尊崇せられ諸願成就、息災延命の徳大なるものあり

潤光山 養智院

加賀延命地蔵尊

 弘法大師の作と言われ、加賀藩五代藩主前田綱紀が市内の寺院に転地を命じたときに、夢枕に地蔵尊が現れて「鬼川守護のため、養智院はこの地に残すように」と言われたとされています。文学の地蔵尊とも言われています。日本3地蔵尊の一つだそうです。お寺の中に安置されているようで写真は撮れませんでした。(ここには鬼川という川が流れ外堀の役目をしていたようです) 

越中立山地獄谷地蔵尊

 立山の地獄谷の地中から出現したと言われる木像の立像で、泰澄大師作と伝えられています。明治期からここに祀られるようになったようです。これもお寺の中で写真はありません。(泰澄大師に関しては、別館の歴史のところにを参考に、また立山の地獄谷は別館の「富山編立山室堂散策」に写真があります」

鬼川延命地蔵尊

天正年間(1573〜1592)、鬼川の開削の際に発見され、当時の開削奉行が寄進したものです。

(2,000年10月14日早朝撮影)
(2,000年10月21日早朝撮影)