七稲地蔵(東山、観音通り寿経寺)

 この七稲地蔵は安政の飢饉の時に、米が高騰して口にする事が出来ない町民が卯辰山に登り、お城に向かって「米をくれ」と泣き叫び続けた「卯辰山泣き一揆」の首謀者として処刑された7人の霊を慰めるために彫らせた7体の地蔵です。

 当時、卯辰山に庶民は登れませんでした。お城を見下げることになるからです。その禁をやぶって山に登った7人の首謀者のお地蔵さんです。

しかし、そんな悲壮感は無く穏やかな顔のやさしいお地蔵さん達です。

地蔵橋子安地蔵尊(小将町)

 応長元年(1311年)大乗寺二世瑩山和尚はこの地石川郡山崎村修理谷坂下(現小将町)の堂伽藍の大仏閣浄住寺を建立し花園帝の勅願を賜り、三百貫の地を御寄進されたが中古大火で悉く焼失した。
 浄住寺門前の地蔵堂は、子供の病気その他何事でも祈誓すれば必ず成就するとて人々本尊を拝し花を供えて信仰した。この堂の傍らの清川に板石三枚を並べた橋を地蔵橋と称した。(以上は金沢橋梁記、浄住寺記による)

 藩政の初期、奥村家膳氏が橋下に埋もれた地蔵尊を地上に安置しようとしたところ、地蔵尊が夢枕にたたれ「自分は橋下にて諸人に踏まれて通る人を済度する。」とのお告げがあり、身代わり地蔵として更に多くの人々の信仰を得たそうです。

 昭和に入りその信仰する人々により地蔵堂が再建されたそうです。私がこの写真を撮っているときも近所のかたがお詣りをされていました。花も供えられています。

(2,000年10月12日早朝撮影)

天徳院下馬地蔵尊(石引町)

天徳院下馬地蔵尊由緒

 文禄元年(1592年)前田利家尾山城築畳の巨石を戸室山より輓き出し、小立野台は往反激しく現在の石引町が形成された。
 この頃、住民の手により一字の地蔵堂成り、尾山城築畳のための工事の平安無事を祈りました。
 元和九年(1623年)加賀藩主三代利常公、其の室(珠)天徳夫人の菩提のために四万坪の地を莊して一大禅院を建立、天徳院と号して菩提所となす。
 先の地蔵堂の箇所を下馬とし鎮守祠を設け、白山権現を併祠し腰掛け所を作って、諸人往来参詣の便に資した。世人「下馬先」と呼ぶ。

 四百年前地方住民の鎮守として起り、信仰篤く、祭祠は盛大に続けられ、除災招福の霊験も著しく、商売繁盛、大盗厄除を念じて往反の人々の尊信最も堅く、一天徳院の鎮守というより、小立野在住の人士の信仰と祭祠の中心である。この鎮守の祭祠を「下馬の祭り」と称し、毎年例祭には、奉納この下馬先に立て、甚だ繁昌せり。
 「下馬の踊りにおどらねは、臼の目立てか、番太郎か」と謳われた程、市中に有名となる。
今も下馬地蔵尊を祠り盛んに行われ、地域の信仰の的となっており、人々の心の安らぎを永く守り続けているのです。

 上の長々とした文章をわかりやすく説明します。加賀藩の藩祖前田利家公が金沢にお城を築城するとき、この地蔵堂のあることろより山の方の戸室山という山から城の石垣の石を切り出していました。

 その石を城の工事現場に運ぶときにこの場所を通ったのでここを石引町といいます。その石をひく往来の安全を祈って住民がここに地蔵堂を建てました。

 その後二代将軍徳川秀忠の娘珠姫が3歳の時、9歳の前田利常(のち三代藩主)に嫁いできました。珠姫、利常夫妻は仲むつまじかったといわれ、四代藩主となる光高など7人の子宝に恵まれました。しかしながら珠姫は24歳のときに病気で亡くなりました。
その珠姫の菩提のためにこの地のそばに大寺院が建てられました。それが珠姫の法名である天徳院という寺院です。
それでこの地蔵堂の位置より先の天徳院までは馬から下りなくてはならなかったそうです。

(2,000年10月12日早朝撮影)